リモートワークがデフォルト、変化した自由の形とは

 

久しぶりの湿った空気が心地よい5月の連休中の某日、緊急事態宣言下の東京は飲食店も百貨店も映画館も軒並み休業中のようで、良い天気を横目になんだかもったいない気を拭きれずにいながらも、でもこういう連休もこれはこれでゆったりできて良いなと、引きこもり生活を楽しんでいる。

この4月から社会人になり、先日初めてのお給料ももらって、大学院生活ですっかり無給の長時間労働に慣れ切ったせいか、毎日学んでいるのにお金をもらえるという事実にちょっと感動してしまう。

 

まだ入社したばかりだが今の率直な気持ちでは、職場はとても恵まれた良い環境で、同期も先輩も優秀で気さくな人ばかりで、刺激的で充実した日々を送っている。ちょっと立ち向かうのがゴツすぎる場面も多々(かなり)あるけれど。

これまで会社に出社したことは二度しかないが、リモートワークがデフォルトで毎日出社するということを体験したことがあまりない我々の世代にとって、リモートワークの日々には別に特に不満はないし、自由で働きやすい最高の環境だと感じることも多いのではないか。(コミュニケーションに不便を感じると言っている人は多い気がするので私だけかもしれない。)

在宅勤務だと、勉強やプライベート、自分の時間がとても増える。移動もなく、不要な残業もなくなり、アフターもない。家事を無理なくこなせるようになるばかりか、趣味の時間を増やしたり、場合によっては副業や兼業もできるようになる。これは多様な働き方を望む人にとって、とても嬉しい大きな変革だ。

 

しかし自分の時間が増えるということよりましてクリティカルなチャンスと言えば、自分の帰属意識や価値観をより自由に保持できるようになるということではなかろうか。

私たちは日々意識しないうちに周囲の人々や環境によって価値観が形成されていくが、リモートワークがデフォルトの環境においては、良くも悪くもコミュニティでの価値観の共有やコミュニケーションが少なくなり、日々の自分の考えや感じ方を形成する環境の選択に、より個々人の裁量が大きくなる。

ネットの推薦システムによるフィルタリングによって消費行動や嗜好が最適化されてしまうという点においては、ネット上の滞在時間が増えることの方がよほど価値観の画一化を進めることなのかもしれないが、

自分がどんな情報に日々触れるか、ということをちゃんと考えて設計すれば、人によってはより自由を達成できるかもしれない。

 

 

などと偉そうに語りつつも、日々学ぶことに精一杯でニュースや情報サイトをたまに流し見することくらいしか出来ていないので、自分に言い聞かせるようなつもりで書いている(笑)

世界を悲観的にしか見れなくさせるようなニュースも相変わらず多い中、一部経済では元気が出るニュースもどんどん見られるようになってきて、まあ無駄に興奮せず今自分にどんな価値を生み出せるかということを楽観的に楽しく考えるのが良いのだろうなあと思う。

不透明ななか、自由にやっていきたいものである。

 

 

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