おもてなしを、焼きたてのパンと

「え、ドア開いてるから勝手に入ってくれてて良かったのに」

事前に約束していた時間ぴったりまで律儀に待って、メッセージを一本入れて外で待機していたハードコアジャパニーズの私たちに、ベンは気の抜けた声でそう言った。

道脇に肩身狭そうにちまっと停められた私たちの車を一瞥すると、「あ、家の前に停めちゃってぜんぜんいいよ〜」と自分の車の横を指し、その狭いスペースに不安そうな顔でのろのろと車を進めていく旦那のことを彼は気にも留めず、ずんずんと家の中に入って行ってしまった。

 

職場の同僚であるベンは、今年初めての赤ちゃんが産まれたばかりで、私と旦那はベイビーシャワーというか、ウェルカムベイビーというか、とにかくそういう感じで「赤ちゃんおめでとう!」をいうためにこの日彼の家を訪れている。

 

 

トロント郊外をさらに超えた小さな隣町にある彼の家は、心地よい暮らしの匂いが染みついた古い一戸建てで、お邪魔するとちょうど奥さんのリリーさんが焼きたての自家製パンをオーブンから取り出しているところだった。ジャズのレコードや、古いポスターや、今よりも少し若い2人の笑顔いっぱいの写真、ヨーロッパを旅行したときに飲んだといういろんなクラフトビールのラベルなんかがあちらこちらに飾ってあったりして、私はすぐにこの家が好きになった。ベンがみんなにエスプレッソを淹れてくれて、私たちは焼きたてのふかふかのパンと、近くのファームで採れたというりんごをご馳走になった。りんごは日本でよく食べるような糖度の高いものではなくて、小ぶりで酸味の強い、さっぱりしたりんごで、さっきそこで木からもいできたみたいに新鮮な、混じり気のない味がした。

 

赤ちゃんのクレアちゃんは、多くの子がそうするように、はじめびっくりしたような顔で私たちのことを凝視していたが、人懐こい性格のようで危害がないと悟るとすぐにリラックスしてくれたようだった。彼女は私たちを、特に旦那を大層気に入ったようで、にこにこしながらちょっかいをかけたり、しまいにはパンを大事そうにちぎって、なぜかそれでテーブルを一生懸命ふきふきして、嬉しそうに旦那に差し出したりしていた。

 

 

バックヤードに森があるから、と誘われて、厚手のコートをしっかり羽織って裏口から外に出ると、そこは小高い小さな丘になっていて、目下に深緑色の木々が広がっていた。晩秋らしい、少しくすんだ色の背丈の長い草が茂った丘の原っぱで、「ワイルドベリーをよく摘みに行くの」といたずらっぽく振り返るリリーさんは、栗色の髪が風に揺れて、絵本の中の女の子が御伽話からそのまま出てきたみたいだ。クレアちゃんを抱いて歩くリリーさんの隣で森を散歩しながら、私たちはいろんな話をした。

リリーさんはとても博識で、賢くて素敵な女性で、私はあっという間にリリーさんが大好きになった。森の植物や動物のこと、ベリーの見分け方、昔森の近くにあったとある施設の話、街の歴史、街出身のある詩人の話。彼女はケベックにルーツがあるフランス語のバイリンガルで、ドイツに留学していたからドイツ語も堪能だそう。そばかすが可愛らしい、気さくで物腰優らかな印象なのに、数々の賞を総なめするトライアスロンのスーパー選手だったそうだから、本当に舌を巻いてしまう。今は育児をしながら、リサイクルのボランティアをしているそう。ベンは頭の切れる、良い意味で少し変わった天才タイプだから、学生のころは、ちょっと風変わりな天才と、バランス型のエリートの、素敵カップルだったのだろうなあと想像した。

 

 

お祝いをしに来たのは私たちの方なのに、夫妻は私たちをたくさんもてなしてくれて、いろんな場所に連れ出してくれた。車を少し走らせて、私たちはダウンタウンをぶらぶらすることにした。

赤ちゃんは、冬の外気に晒されて一瞬う、と寒そうに顔をしかめていたけれど、お父さんの背中に担がれるとすっかりご機嫌を取り戻したようだった。そんな赤ちゃんの心配よりも、私の目は車から取り出された赤ちゃんキャリーバックパック(?)に釘付けだった。私の知っている、母が妹をおぶっていたぺらぺらのおんぶ紐・だっこ紐なんかとは比べ物にならないしっかりした登山リュックみたいなやつだ。大層な装備にびっくりしていると、これは別に普通の赤ちゃんキャリーで、なんなら登山用の赤ちゃんキャリーバックやジョギング用のベビーストローラーもあると教えてもらった。ジョギング用のベビーカー‥??後にぐぐると、三輪の強そうなストローラーがいっぱい出てきた。なんていうか北米すごい。

 

ダウンタウンは、入植の時代に作られたスコットランド風の街並みがそのまま残されている。私たちは石畳をてくてく歩き、丘を登って街の大きな教会まで歩き、荘厳なオルガンの音を忍足でこっそり聞き、寒くなってカフェでみんなで温かいコーヒーを買って、白い湯気を立てながらまた川沿いを橋まで歩いた。クレアちゃんはびっくりするくらいの奇跡的なお利口さで、お父さんの背中の上で揺られているときも、一歳にも満たないのに夕食に平然と賑やかなバーに連れて行かれても、終始ご機嫌だった。リリーさんはたっぷり寝かせたのがよかったわと満足げだった。

 

 

ベンが絵本をあげたいと言っていたから、私たちは古本で見つけた、英訳の「ぐりとぐら」を含む日本の絵本を何冊か選んでプレゼントした。素敵な夫婦の元で、たくさんの愛を受けて、すくすくと元気に、幸せを感じながら育っていけますように。地域に根ざした、暮らしを丁寧に紡ぐ生活を、狭く退屈と感じてしまうときがくるのだろうか。ちょっと硬派な父親と衝突してしまうときがくるだろうか。私自身がそうだったように。そんな想像をするとちょっと心がちくりとするけれども、まあ例えそうなってもそれは自然なことだし、この家族ならきっと大丈夫。

 

暗くなった帰り道、なんだか幸せな気持ちに包まれて、車内はあったかかった。明日は久しぶりにパンを焼いてみようかな。

 

*人物の名前は全て仮名です

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