本の世界に浸るとき、人はいつだって自由になれる。
毎日に手一杯なときや、時間が全くないわけではなくても心が忙しいときは、本はただの文字の羅列か、消費するだけのものになってしまうけれど、
定期的に心は旅を求めて、準備ができると、
電車の中で、1日の終わりの布団の中で、
どこかの時代の偏屈な天才数学者になり、しらない街の青い目の少年になれる。
あるいは、ややこしいことを考えることが好きな、立派な大人の頭のなかを、好き勝手に彷徨うことができる。
ところで、エッセイや紀行文というジャンルは、本のなかでもだいぶ毛色の違う種類だが、
最近久々にしっかり読んだ紀行文で、Olga Tokarczukさんの、“Flight” という作品の冒頭に、お気に入りの一節がある。
この夕方は、世界のはずれ。たまたま遊んでいた時に、思いがけず、それが私に触れたのだ。わたしは見つけた。しばらく1人で、無防備に取り残されていたから。
ふいに出会った光景に心を奪われるという経験はあるものだが、
昼が消えていく夕暮れの瞬間や
人々がいなくなり喧騒がふと消えた空間では、
なんだか、とっても大きなものを感じることがある。
空間が体に染み込んでくるような感覚。
たまたま「世界のはずれ」に私は触れた、出会った、という表現がとてもしっくりきた。
“天地の創造主、全能の父である神”と使徒信条は説き、
“人間は神の失敗作なのか、それとも神が人間の失敗作なのか”、とニーチェは問いかけ、
“神様ってわたしの中じゃなくて、わたしたちの間にいるんだと思うの”と映画 Before Sunset の夕暮れ前の短い会話でヒロインは語るが、
私にとっては、神様はいつだって気まぐれに現れて、
私の人生に意味や価値を与えてきたように思う。
良い思い出とか、大事な記憶は、断片的で開くたびに形の変わる写真集のようなしまわれ方をしていて、
素敵なエッセイとの出会いは、他人のアルバムを覗くような楽しさがある。
歌の歌詞。エッセイ。会話。短い、切り取られた人生の断片。これから、どんな素敵な”エッセイ”に出会って、自分自身の経験にできるのだろうと柔らかな期待を抱きながら、すっかり冷めてしまったコーヒーをすすった。