マルチ・スタンダード

 

恵まれていること。何不自由ない人生を送ってきたこと。それは折に触れて再認識し感謝することであると同時に、時折自分にとって何か、責任のようなものとして背負っていかなくてはならないもののように感じられることがある。

少々大袈裟な言い方になったかもしれないけれども、それは例えば「銀河鉄道の夜」のジョバンニに対するカムパネルラのような、あるいは「千と千尋の神隠し」の千尋がハクに抱くような、私たちは皆犠牲の上に成り立つが普段はすっかり忘れて生きているとか、あるいはより東アジア風に言うと生まれながらの業とか、はたまた欧米風に言えば原罪とか、そういう話を今回は持ち出したかったわけではなかった。

 

文章を書こうと思うとき。曲を作ろうと思うとき。自分の目や耳を精一杯開き集中させてアートなものに触れようとするとき。そうやってもやだらけで全然見えない世界をなんとか見つめようとするとき、自分が恵まれた人間であることに、そして幸福な私にはきっと理解することができない重要なテーマがたくさん存在するのであろうことに、自分の感性が随分とちっぽけなもののように思われることがある。

 

以前、トロント出身のアーティストであるShary Boyleさんという方の展示を見る機会があった。Wikiを引くと「コンテンポラリー・ビジュアルアーティスト」とあるが、彼女は彫刻、絵画、パフォーマンス、音楽等々あらゆる表現手法を使って、アイデンティティ、ジェンダー、階級などをテーマにした、パンチの効いた作品を作る方だ。なにやら若い頃はロックバンドをされていたらしい。

その展示の中に「White Elephant」という作品があって、まあこれが何とも不気味な作品なのだけれども、white elephant(=捨てることのできない邪魔で大きなもの)というタイトルが示すように、カナダにおける「白人」という、彼女自身のアイデンティティが大きなテーマとなっている作品である。自分は自分なりに苦しみや悩みを経験してきたのに、アイルランド系カナダ人として、女性として、社会の不条理さを問うてきたのに、その自分自身が、先住民を迫害してきた「白人」、あるいは移民に対して守られた「白人」であるということへの失望や戸惑い、アイデンティティの揺らぎ。

 

日本でも話題になった「アーモンド」を書いたソン・ウォンピョンさんの「他人の家」というエッセイに収録されている「文学とは何か」という短編小説のなかには、物書きに憧れる女の子が、「不幸への憧れ」という「秘密の悩み」を持っているとか、「本当の不幸を経験してきた人たちの前では、彼女の悩みはとてつもなく子どもじみて見え、単に駄々を捏ねているレベルの悩みに成り下がった」などという表現がある。不条理を問おうとするとき、表現しようと思うとき、自分にはそれを言う資格も、そのテーマへの深い理解もないのだと自嘲してしまう、ということだろうか。

 

自分自身も、こういったことにどこか共感する部分があるように思う。例えば、大学にて、1学年に女の子が1人だけ、あるいは首都圏出身の人ばかり、というような環境における「女子」「地方出身」という「マイノリティ」であったこと。あるいは現在、カナダの国営会社における日本からの移民という「マイノリティ」であること。そいういったことに、悩みと言えばまあ確かに自分なりのそれとも呼べるようなものも抱えてきたような気がするけれども、実はどこか安心していた自分がいたのではないか。なぜなら、言いたければいつだって「苦しい」と不満を言うことができたから。そんな自分は、できればあまり直視したくない、都合の悪い自分の一面である。でも、少し思い返せばどう考えたって、いつだって自分はとてつもなく恵まれてきたのだ。心身健康で、善良でまた健康な家族に囲まれ、素敵なパートナーに恵まれ、仕事もあり、自分と家族を養えるだけの収入があり、誰かに不当に差別されることも恨まれることもそんなにない。そして何より、何を言おう日々、ごはんおいしいとかYoutubeの動画面白いとかいっぱい寝たとか春が来たとかお花きれいとか、ハッピーだなあと感じながら暮らしている。

 

だからと言って、幸福であることへの引け目を自覚すべきだ、などということでは全くないのだと思う。そんなの烏滸がましい。恵まれているなら恵まれていることに素直に感謝して、自分なりの悩みとか苦しみとかに正面からぶつかれば良いのである。だって、自分は自分、人は人だし、周りから見て例えばお金があるとかいう理由で「恵まれている」と誰かを判断したところで、誰がそうと決めつけられるだろう?他人がどうだから、という理由で自分の感性を否定してしまったら、アートなんて絶対にできないのである。良い映画はヒロインが白血病で死ぬのが絶対条件、というわけではない。

読むとき、書くとき、聞くとき、見るとき、作るとき、触れるとき。属性で物事を、人を、あるいは自分自身をジャッジすることなく、そんなものを全部とっぱらった素直な感性で物事を見つめ表現したいなあって。そしてそれはしばしば、随分難しいことだなあって、思うのである。

 

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