人は生まれながら祝福されているのか、最悪な状態から始まるのか?

 

あらゆる物事の存在自体の意味は、非常に特殊な立場にある個々人の人間が勝手に決めているものであり、

したがって人間が生きる意味などというのも、身も蓋もないことを言えば、考えたところで証明のしようがないことだ。

 

しかし、「そうである」とも「そうでない」とも証明できない何らかの立場を持たないことは、しばしば何とも心許ないことである。

キリスト教的な立場にたてば、世界は神の創造物であり、よって人は皆生まれながらに祝福され、等しく神の愛を受けている。

クリスチャンでなくても、こういった立場に立って愛と正義に生きる生き方は、それはそれで立派な生き方だが、

人は生まれた時点で定められた心拍数を与えられ誰もが死に向かって闘うのであり、人生はそもそも大変で苦しいものである、という立場だってあり得る。

だから、無意味な欲を捨て心の平穏を得ることに意味があると考える立場も、

日々身の回りを整え食事をし、日々の生活を丁寧に営むことに一番の意義を置く立場も、

日々生きているだけでえらいという立場も、

正しくて、立派なやり方だと思う。

 

そんな大層なことを思い詰めなくても、例えば私たちは他人や社会から必要とされていると感じるとき自分が価値ある存在だと実感するから、

人のために何かすることには意味があると多くの人は感じる。

あるいは、熱狂や感動、一体感を目指すことに意味があると感じるかもしれない。実際、歴史はいつでも多くの人がそう考えるという事実を教えてくれる。

 

 

こんなことを今更つらつらと書いているのは、ある戦時中の体験を回顧した本の一節で、

残虐なことを平気でやってのけるような兵士たちの奏でる音楽が、はっとするほど美しかった、という話を反芻していたからである。

他人の行動や風景、香りや音、物語、宇宙の法則などに触れ、私たちはある瞬間に美しいと感じることがあり、それは直感的にとても重要で意味がある感覚だと感じるが、

 

兵士の歌の話を踏まえれば、それらが何か崇高なものとのコミュニケーションだというのは、私たちの思い込みなのである。美しいもの、感動はしばしば、平凡なものや醜いものの中から生まれる。

しかし何でもないそれらのものが、本人の意図を超えて、私たちを突き動かし、エネルギー源になるのであれば、

他者や偶然と「私」との間にこそ神がいるとも言えるのではないか?

 

などと、まあ他人との会話の話題にしたら変人扱いされるであろうことを、ぐるぐると当てずっぽうに考える夜だった。

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