いつかの秋のキャンパス、赤いマフラーを巻いて

 

ある肌寒い秋口の夕方、用事があって久々にキャンパスを歩いていると、人少なな石畳の道に靴底がコツコツと音を立てて、ふと大学に入学したばかりの頃を思い出した。

 

そういえばあの頃は何故かマフラーが好きで、よく身につけていた。今は研究所以外にほとんど外出しないけれど、あの赤いマフラーはどこにしまっていたんだっけ。

 

授業でもサークルでも図書館でも、毎日キャンパスに通えることは二度とない特権なのに、それが許されない学部生たちを思うと、胸が痛む。

 

国公立大学が厳しい規制を強いられることはある意味仕方のないことではあるが、国が学生たち、特に学部生や理論系の研究室に強いている犠牲は、きっと思っている以上に大きい。

まあ、実験系の研究室に所属している自分の場合、むしろ以前よりミーティングや授業が全てオンラインになるなど効率化して、研究所にて何不自由なく暮らしているので、実際はどうなのかよく分からない。当事者たちも声を上げにくいご時世であることに間違いはない。

 

しかし、学部生だったあの頃、私たちは何だって出来ると信じていて、未来には楽しいことしか起こらないと確信していた。若くて愚かだったから? でも、本当はいつだって同じなのだ。何歳であっても、どんな属性の人間であっても、人は自由に好きなことを目指し、語って良い。違ったのは、彼らは当たり前の自由を獲得し世界に放たれたばかりで、一種の強烈な成功体験の直後だったのである。そればかりか、何を好んでも何の責任も負わず、何に打ちこんでも居場所があり、自分と同じ何者でもない仲間たちに囲まれていて、世界は私たちの前に無限に開かれていた。だって、高校生にだって無数の選択肢があるが、その選択権は自分の存在が崩れてしまうような恐ろしいものだったではないか。説明責任があって、常に審査される「自由な選択」だったのだ。別に、これらの権利とか自由とかは私が勝手に感じ思っただけで、私にとってはたまたまそうだったというだけなのだが。

 

わたしたちのキャンパスは少しずつわたしたちのものではなくなっていって、たくさんの物語が詰まった学生生活は、忘れられるように、そっと消え入ってゆく。秋の朝の風と木々と光、冷たい石畳、誰もいないキャンパスに、ふと、魔法がすっかり消えてしまったことに気づくのだ。

卒業がもう目前になって、キャンパスを歩くのもあと数えられるほどなのだろうと思うと、そんなことをつらつらと考えずにはいられない。

まあ、別に転機など常にそうで、たまたま卒業の日は予めわかっているというだけなのだ。

 

修論審査も確実にオンラインになるだろうが、物理的な場所が無意識に果たす役割は、どこまで意識的にオンラインで大体可能なのだろうか? 私たちが一つ一つ、それらに気づいてデザインしていくしかない。

 

歴史を刻んだキャンパスは、突然水が何処かへ行ってしまった川のように、なんだか不器用に突っ立っていたのだった。

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